大学入学共通テスト(公民) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問41 (<旧課程>倫理(第2問) 問3)
問題文
次の会話は、日本思想についての倫理の授業後に、高校生Cと先生が交わしたものである。
C:先生、私、自分で課題を設定して探究する授業が苦手です。私は教室で先生方の話を聞くのが好きなのに、「問い」を立てるのはうまくいかなくて…。問いって、どこから手をつけたらいいか分かりません。
先生:必ずしも問いそのものを特別なものと考える必要はありませんよ。先生方に授業内容について質問したり、仲間に将来の夢を尋ねたりすることなら、気軽にできるでしょう。それも問いです。どれほど高尚に思える問いも、そうした素朴な問いが原点にあります。そういえばこの間の授業で、a仏教について取り上げたときに、禅問答の話をしましたね。
C:はい、私にはとても到達できない次元の問いだと感じました…。
先生:そうした身近なものに思えない仏教の問いも、実は素朴な問いに根ざしているのです。あなた自身も、例えば授業中に先生方の話を聞いていても、様々な疑問が、浮かんでは消えるでしょう。思考していれば、自然と浮かぶのが問いです。あなたももうできているはずですよ。
C:先生の授業で、b日本の神々でさえも問いを発するのだと習いましたね。c念仏と救いの関係を問うた仏教者の授業も印象的でした。こうした問いが、素朴な問いから始まっているというのは、大変興味深いです。そうだ、次の授業では課題を立てるんでしたね。「問い」をテーマにします!
下線部cに関して、次の板書と後の資料は、ある日の倫理の授業で用いられたものである。中世における念仏思想と資料の内容を踏まえて、板書中のa~cに入る記述の組合せとして最も適当なものを、回答選択肢のうちから一つ選べ。
本日のテーマ:中世の念仏思想に対する問い
「念仏をとなえれば、信心の起きない人でも救われるのか?」
資料では、念仏僧の( a )姿が描かれており、この念仏僧は( b )である。その思想によると、本日のテーマの答えは「( c )」となる。
資料
「南無阿弥陀仏と一声となえれば極楽往生できると信じ、南無阿弥陀仏ととなえて、この名号札*を受け取って下さい」と念仏僧が言うと、相手の僧は「その信心は起きません。札を受けたら噓(うそ)になります」と受け取らなかった。……念仏僧は「信心が起こらずともこの札を受け取りなさい」と相手の僧に名号札を押し付けてしまった。……(念仏僧は自らの行いの是非を問い熊野神社に籠もると、次のお告げを授けられた)……「お主(ぬし)が念仏を勧めることで、初めて全ての人間が往生できるということではない。阿弥陀仏がはるか昔に悟ったときに、全ての人間の往生は南無阿弥陀仏(の名号で成る)と決まったのだ。相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず、名号札を配りなさい」
*名号札:「南無阿弥陀仏」と書かれた札
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問題
大学入学共通テスト(公民)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問41(<旧課程>倫理(第2問) 問3) (訂正依頼・報告はこちら)
次の会話は、日本思想についての倫理の授業後に、高校生Cと先生が交わしたものである。
C:先生、私、自分で課題を設定して探究する授業が苦手です。私は教室で先生方の話を聞くのが好きなのに、「問い」を立てるのはうまくいかなくて…。問いって、どこから手をつけたらいいか分かりません。
先生:必ずしも問いそのものを特別なものと考える必要はありませんよ。先生方に授業内容について質問したり、仲間に将来の夢を尋ねたりすることなら、気軽にできるでしょう。それも問いです。どれほど高尚に思える問いも、そうした素朴な問いが原点にあります。そういえばこの間の授業で、a仏教について取り上げたときに、禅問答の話をしましたね。
C:はい、私にはとても到達できない次元の問いだと感じました…。
先生:そうした身近なものに思えない仏教の問いも、実は素朴な問いに根ざしているのです。あなた自身も、例えば授業中に先生方の話を聞いていても、様々な疑問が、浮かんでは消えるでしょう。思考していれば、自然と浮かぶのが問いです。あなたももうできているはずですよ。
C:先生の授業で、b日本の神々でさえも問いを発するのだと習いましたね。c念仏と救いの関係を問うた仏教者の授業も印象的でした。こうした問いが、素朴な問いから始まっているというのは、大変興味深いです。そうだ、次の授業では課題を立てるんでしたね。「問い」をテーマにします!
下線部cに関して、次の板書と後の資料は、ある日の倫理の授業で用いられたものである。中世における念仏思想と資料の内容を踏まえて、板書中のa~cに入る記述の組合せとして最も適当なものを、回答選択肢のうちから一つ選べ。
本日のテーマ:中世の念仏思想に対する問い
「念仏をとなえれば、信心の起きない人でも救われるのか?」
資料では、念仏僧の( a )姿が描かれており、この念仏僧は( b )である。その思想によると、本日のテーマの答えは「( c )」となる。
資料
「南無阿弥陀仏と一声となえれば極楽往生できると信じ、南無阿弥陀仏ととなえて、この名号札*を受け取って下さい」と念仏僧が言うと、相手の僧は「その信心は起きません。札を受けたら噓(うそ)になります」と受け取らなかった。……念仏僧は「信心が起こらずともこの札を受け取りなさい」と相手の僧に名号札を押し付けてしまった。……(念仏僧は自らの行いの是非を問い熊野神社に籠もると、次のお告げを授けられた)……「お主(ぬし)が念仏を勧めることで、初めて全ての人間が往生できるということではない。阿弥陀仏がはるか昔に悟ったときに、全ての人間の往生は南無阿弥陀仏(の名号で成る)と決まったのだ。相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず、名号札を配りなさい」
*名号札:「南無阿弥陀仏」と書かれた札
- a 南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定すると説く
b 法然
c 往生の可否は信心と無関係なのだから、信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる - a 南無阿弥陀仏と書かれた名号札の力を一心に信じている
b 法然
c 信心の有無こそが往生の可否を決定するのだから、信心の起きない人が念仏をとなえても救われない - a 阿弥陀仏や極楽を心に思い描いて念仏する
b 法然
c 往生の可否は心の純粋さに関係があるのだから、純粋な信心によって念仏をとなえてこそ救われる - a 南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定すると説く
b 一遍
c 往生の可否は信心と無関係なのだから、信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる - a 南無阿弥陀仏と書かれた名号札の力を一心に信じている
b 一遍
c 信心の有無こそが往生の可否を決定するのだから、信心の起きない人が念仏をとなえても救われない - a 阿弥陀仏や極楽を心に思い描いて念仏する
b 一遍
c 往生の可否は心の純粋さに関係があるのだから、純粋な信心によって念仏をとなえてこそ救われる
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この過去問の解説 (3件)
01
念仏思想に関する問題です。
a:「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定すると説く」
念仏僧のセリフに
「南無阿弥陀仏と一声となえれば極楽往生できると信じ、南無阿弥陀仏ととなえて、この名号札を受け取って下さい」
とあるので、aにはこれが入ります。
b:「一遍」
知識で解くところです。
ここには一遍が入ります。
一遍は、各地を遊行し踊り念仏を行いました。彼が開いた宗派が時宗です。
また、彼は自分の所有物を排した姿勢から捨聖とも呼ばれます。
法然:浄土宗の開祖。凡夫としての自覚から阿弥陀の本願にすがることを説く。称名念仏を重視し、専修念仏を唱えた。
c:「往生の可否は信心と無関係なのだから、信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる」
最後のお告げの部分からこれが正解と分かります。
全ての人間が極楽往生できると最初(阿弥陀仏がはるか昔に悟ったとき)から決まっているので、信心は無関係だと述べられています。
日本の鎌倉仏教は種類が多く覚えにくい部分はありますが、それぞれの特徴を理解して区別することは可能です。
何を重視しているかが大きく異なるのでそこに注目してみてください。
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02
a
資料の「南無阿弥陀仏と一声となえれば極楽往生できると信じ…」という文章から、
「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定すると説く」
が適当であることが分かります。
また、資料の「信心が起こらずともこの札を受け取りなさい」という文章から、
念仏僧が「南無阿弥陀仏と書かれた名号札の力を一心に信じている」
ことも分かります。
「阿弥陀仏や極楽を心に思い描いて念仏する」は、観想念仏の説明です。
b
この念仏僧は「一遍」です。
信心の有無にかかわらず念仏を唱えれば往生できる「他力念仏」を体で表現し、
踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を広めた人物として有名です。
法然は、信心を持ち念仏を唱えれば往生できるという「専修念仏」の教えを説き、
浄土宗を開いた人物として知られています。
c
資料の「…全ての人間の往生は南無阿弥陀仏(の名号で成る)と決まったのだ。
相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、…」という文章から、
「往生の可否は信心と無関係なのだから、
信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる」が適当であることが分かります。
「信心の有無こそが往生の可否を決定するのだから、
信心の起きない人が念仏をとなえても救われない」は、
浄土真宗における「信心正因」という思想が反映されたものです。
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03
この問題では資料を正しく読み取り、以下のキーワードを押える必要があります。
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 法然
c 往生の可否は信心と無関係なのだから、信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる
不適切
a 〇
一遍は「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定する」として、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b ×
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c 〇
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 法然
c 信心の有無こそが往生の可否を決定するのだから、信心の起きない人が念仏をとなえても救われない
不適切
a 〇
一遍は「信心が起こらずともこの札を受け取りなさい」とあるように、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b ×
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c ×
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 法然
c 往生の可否は心の純粋さに関係があるのだから、純粋な信心によって念仏をとなえてこそ救われる
不適切
a ×
一遍は「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定する」として、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b ×
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c ×
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 一遍
c 往生の可否は信心と無関係なのだから、信心の起きない人でも念仏をとなえれば救われる
適切
a 〇
一遍は「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定する」として、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 〇
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c 〇
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 一遍
c 信心の有無こそが往生の可否を決定するのだから、信心の起きない人が念仏をとなえても救われない
不適切
a 〇
一遍は「信心が起こらずともこの札を受け取りなさい」とあるように、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 〇
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c ×
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 一遍
c 往生の可否は心の純粋さに関係があるのだから、純粋な信心によって念仏をとなえてこそ救われる
不適切
a ×
一遍は「南無阿弥陀仏と一声となえるだけで往生が決定する」として、「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
b 〇
法然は浄土宗において、ひたすらに一心に南無阿弥陀仏を唱える「専修念仏」をすることで、誰もが極楽往生できるとしました。
一遍は「他力念仏」を説き、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
c ×
資料には『相手に信ずる気持ちがあろうがなかろうが、浄(きよ)い状態であろうがなかろうが区別せず』とあり、一遍は、南無阿弥陀仏を唱えることには、信心の有無に関わらず、極楽往生できるとしました。
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