大学入学共通テスト(公民) 過去問
令和5年度(2023年度)本試験
問45 (<旧課程>倫理(第2問) 問7)
問題文
「問い」をテーマに日本思想について探究活動を行っているCは、毎日書いている日記を見返してみた。次の日記は、Cが、その中から主に倫理の授業の明治時代以降に関係する部分を抜粋したものである。
日記
〇6月20日
先生からf明六社の話を聞く。学者が問いと応答を交わす、明治時代の討議討論。江戸時代の会読でも、似たようなことをしていたな。それにしても、問いはどんな風に生まれてくるのだろう?
〇7月11日
今日の授業でg西田幾多郎について学んだ。西田は「人生の悲哀」が宗教や哲学の問いの根源にあると言う。「人生の悲哀」とは、誰もが生きている日常の中で経験する悩みや行き詰まりのことなのだろう。これまで問いは先生など目上の者であれ、仲間という同等の者であれ、他者に問うものだと思っていた。でも、「人生の悲哀」が問いの根底にあると考えるなら、それは他でもない自分自身の私的で内的な実感なのだから、他者に問う場合でも、その前提として、自分自身に向けて問うということがあるのではないか。実際に西田の講義は自問自答のスタイルだったらしい。西田の哲学する姿勢が教えてくれるように、自分自身への問いも、正真正銘の問いだし、そうした問いも、誰でも体験する感覚に由来するものなんだな。私が日記でしている自問自答も、西田の問いに通じるところがあるのかな?
〇7月17日
改めて考え直してみると、問いをもって『孟子』を読んだ吉田松陰の牢獄での営みも、西田幾多郎の自分自身への問いも、私の自問自答も、問いであるという点では同じなんだよな。私は探究活動で使えるような問いを見付けるのは苦手だと思っていたけれど、自問自答なら得意なんだし、積極的に取り組んでみようかな。
下線部gに関して、西田幾多郎の哲学についての記述として最も適当なものを、次の回答選択肢のうちから一つ選べ。
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問題
大学入学共通テスト(公民)試験 令和5年度(2023年度)本試験 問45(<旧課程>倫理(第2問) 問7) (訂正依頼・報告はこちら)
「問い」をテーマに日本思想について探究活動を行っているCは、毎日書いている日記を見返してみた。次の日記は、Cが、その中から主に倫理の授業の明治時代以降に関係する部分を抜粋したものである。
日記
〇6月20日
先生からf明六社の話を聞く。学者が問いと応答を交わす、明治時代の討議討論。江戸時代の会読でも、似たようなことをしていたな。それにしても、問いはどんな風に生まれてくるのだろう?
〇7月11日
今日の授業でg西田幾多郎について学んだ。西田は「人生の悲哀」が宗教や哲学の問いの根源にあると言う。「人生の悲哀」とは、誰もが生きている日常の中で経験する悩みや行き詰まりのことなのだろう。これまで問いは先生など目上の者であれ、仲間という同等の者であれ、他者に問うものだと思っていた。でも、「人生の悲哀」が問いの根底にあると考えるなら、それは他でもない自分自身の私的で内的な実感なのだから、他者に問う場合でも、その前提として、自分自身に向けて問うということがあるのではないか。実際に西田の講義は自問自答のスタイルだったらしい。西田の哲学する姿勢が教えてくれるように、自分自身への問いも、正真正銘の問いだし、そうした問いも、誰でも体験する感覚に由来するものなんだな。私が日記でしている自問自答も、西田の問いに通じるところがあるのかな?
〇7月17日
改めて考え直してみると、問いをもって『孟子』を読んだ吉田松陰の牢獄での営みも、西田幾多郎の自分自身への問いも、私の自問自答も、問いであるという点では同じなんだよな。私は探究活動で使えるような問いを見付けるのは苦手だと思っていたけれど、自問自答なら得意なんだし、積極的に取り組んでみようかな。
下線部gに関して、西田幾多郎の哲学についての記述として最も適当なものを、次の回答選択肢のうちから一つ選べ。
- 主観と客観の対立から出発し、主観の根底にあるものとしての「場所」という考えを打ち出し、そこから純粋な客観的世界を説明した。
- 主観と客観の対立を乗り越えるべく、主観的なものを一切含まない、純粋な客観的世界としての「場所」という考えを打ち出した。
- 現実の世界の根源的なあり方として、絶対的に対立するものが、矛盾しつつも同一性を保つという「絶対矛盾的自己同一」を唱えた。
- 現実の世界においては、歴史の進歩に伴い、様々な矛盾は乗り越えられると考え、その成果を「絶対矛盾的自己同一」と名付けた。
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この過去問の解説 (3件)
01
西田幾多郎に関する問題です。
不適です。
「主観の根底にあるものとしての『場所』という考えを打ち出し、そこから純粋な客観的世界を説明した」
というのが誤りです。
西田は、主観と客観の根底にある「場所」という論理を打ちだしました。
そこではあらゆる対立するもの(主観と客観)が未分の状態ですから「純粋な客観的世界」ではありません。
不適です。
「主観的なものを一切含まない、純粋な客観的世界としての「場所」」
というのが誤りです。
他の選択肢で説明したように、「場所」というのは主観的世界でも客観的世界でもありません。
これが解答です。
「絶対矛盾的自己同一」は、例えば、純粋経験です。
純粋経験は主客未分のありのままの体験のことで、本来区別される主観と客観がまだ分けられない一つの状態で存在しているのです。
このように矛盾するはずのものがそのまま矛盾を残しながら高次で一つになっているということを指した言葉です。
不適です。
「絶対矛盾的自己同一」の説明になっていません。
これについては他の選択肢で説明しています。
西田幾多郎の論理はそのものがはっきりしないため、まず理解するのが大変かもしれません。
そういった頭が混乱しやすい理論は、教科書などを参照しながら図や絵で表してみるとスッキリする場合があります。
ただし、西田幾多郎に関してはそもそも西田幾多郎本人がちゃんとした言葉の説明をしていないものも多く、「絶対矛盾的自己同一」などはそう簡単に理解できるものでもありません。
ですから、うまくまとめてくれている今回の選択肢をそのまま覚える・それで納得する方が手っ取り早く実用的だと思われます。
ちなみに、西田幾多郎を始めとする京都大学の哲学者集団を京都哲学といいます。
また、京都大学で哲学を研究した彼はよく近くの「哲学の道」を歩いて思索に耽ったといいます。
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02
西田幾多郎は、「京都学派」の創始者として知られる哲学者です。
西洋哲学の論理と東洋思想(仏教、禅)を統合し、
「純粋経験」「場所の論理」「絶対矛盾的自己同一」といった独自の概念を展開しました。
これは「西田哲学」と呼ばれています。
不適当です。
西田幾多郎は、主客未分の純粋経験から出発し、主観と客観の根底にあるものとしての「場所」という考えを打ち出し、そこから主観と客観の両方が現れる世界を説明しました。
不適当です。
西田幾多郎は、主観と客観の対立を乗り越えるべく、主観と客観の両方が現れる世界としての「場所」という考えを打ち出しました。
適当です。
例えば、「自己」は常に変化しており、10年前の「自己」と今の「自己」は異なるもの(矛盾)ですが、どちらも「自己」であることに変わりはなく、同一であるという考え方です。
不適当です。
西田幾多郎は、現実の世界においては、歴史の進歩に伴い、様々な矛盾は矛盾を含んだまま統一されると考え、その成果を「絶対矛盾的自己同一」と名付けました。
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03
この問題では西田幾太郎の思想を押える必要があります。
西田幾太郎の『絶対矛盾的自己同一』とは現実の世界の根源的なあり方として、個人と社会などのように、絶対的に対立するものが、矛盾しつつも同一性を保つことをいいます。
また、西田幾太郎は『主客未分』を主張し、主体である自分とその客体である対象とが区別がされていない状態であるとしました。そして、「場所」については、主観と客観に分けることではなく、どちらをも含む存在としました。
不適切
西田幾太郎は『主客未分』を主張し、主体である自分とその客体である対象とが区別がされていない状態であるとしました。
不適切
西田幾太郎は『主客未分』を主張し、主体である自分とその客体である対象とが区別がされていない状態であるとしました。そして、「場所」については、主観と客観に分けることではなく、どちらをも含む存在としました。
適切
西田幾太郎の『絶対矛盾的自己同一』とは現実の世界の根源的なあり方として、個人と社会などのように、絶対的に対立するものが、矛盾しつつも同一性を保つことをいいます。
不適切
西田幾太郎の『絶対矛盾的自己同一』とは現実の世界の根源的なあり方として、個人と社会などのように、絶対的に対立するものが、矛盾しつつも同一性を保つことをいいます。
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