大学入学共通テスト(公民) 過去問
令和4年度(2022年度)本試験
問45 (<旧課程>倫理(第2問) 問7)
問題文
Ⅰ 次の会話は、「理想」について調べていたCとDが、日本の近世の思想について先生と交わしたものである。
C:近世ではどんな理想が思い描かれていたんだろう?
D:例えば、伊藤仁斎は、日常において道が実現されることを重視して、日々の生活における人と人との和合が大切だと説いていたね。
C:本居宣長の説いたd 真心も、一つの理想と捉えて良いのかな?
先生:いずれも人間のあるべき姿を追求したものと捉えて良いでしょう。あるべき姿について考えることは、e 日々の生活や、自分の心のあり方を見つめ直すことにつながりますね。
Ⅱ 次の会話は、Ⅰの会話の翌日に、「理想」をめぐる日本の近代の思想について、C、D、先生が交わしたものである。
D:大正時代には、現実をありのままに肯定する自然主義に対して、文学や思想の分野で理想主義が唱えられました。今ある現実を超えてあるべき姿を追い求め、f 理想と現実の間で葛藤した人々の姿が印象的でした。
先生:大事な点に気が付きましたね。実は「理想」という日本語は、近代になってからドイツ語のIdeal(イデアール)を訳して作られたものなのです。
C:Idealの語源はイデアでしょうか?永遠に変わることのないイデアを踏まえて、理想という言葉が作られたのですね。
先生:そのとおりです。西洋の思想を取り入れる中で、g 現実の自己をより深く見つめ、あるべき姿を探求した人もいました。
下線部gに関連して、自己を深く見つめた哲学者の西田幾多郎と、その西田が深く共鳴した親鸞の思想に関心を持ったCは、次のノートを作成した。ただし、ノートには、適当でない箇所が一つある。西田幾多郎や親鸞について説明した記述として適当でないものを、ノート中の下線部①〜④のうちから一つ選べ。
ノート
西田幾多郎は、あるべき自己のあり方を、世界や存在の真のありようという観点から考えました。『善の研究』の中で、① 西田は、例えば美しい音楽に心を奪われて我を忘れるような主客未分の体験に注目し、これを純粋経験と呼びました。また、② 西田は、純粋な知の働きによって「真の実在」を認識し、自らのあり方を反省することで、「真の自己」が実現されると考えました。彼の思索には、自己の理想的なあり方を真摯に見つめた姿勢が感じられます。
さて、西田というと、坐禅に打ち込みつつ自分自身の哲学を築き上げたことで知られていますが、西田は、親鸞にも深く共鳴していました。
③ 親鸞は、自己の内面に捨て去ることのできない煩悩があることを見つめて、自分は煩悩を捨て切れない悪人だと自覚することを重視しました。また、④ 自然法爾という考え方を示した親鸞は、悟りを求めようとする自力を捨てて、阿弥陀仏のはたらきに身を委ねるあり方を説きました。ここには、現実の自己のあり方を厳しく見つめ、理想を探し求めた姿勢が感じられます。
二人の生きた時代は異なりますが、このような両者の思想は、理想を探し求めることで現実の自己を問い直し、そこから新たな現実を開くことができるのだと、私たちに教えてくれます。
このページは閲覧用ページです。
履歴を残すには、 「新しく出題する(ここをクリック)」 をご利用ください。
問題
大学入学共通テスト(公民)試験 令和4年度(2022年度)本試験 問45(<旧課程>倫理(第2問) 問7) (訂正依頼・報告はこちら)
Ⅰ 次の会話は、「理想」について調べていたCとDが、日本の近世の思想について先生と交わしたものである。
C:近世ではどんな理想が思い描かれていたんだろう?
D:例えば、伊藤仁斎は、日常において道が実現されることを重視して、日々の生活における人と人との和合が大切だと説いていたね。
C:本居宣長の説いたd 真心も、一つの理想と捉えて良いのかな?
先生:いずれも人間のあるべき姿を追求したものと捉えて良いでしょう。あるべき姿について考えることは、e 日々の生活や、自分の心のあり方を見つめ直すことにつながりますね。
Ⅱ 次の会話は、Ⅰの会話の翌日に、「理想」をめぐる日本の近代の思想について、C、D、先生が交わしたものである。
D:大正時代には、現実をありのままに肯定する自然主義に対して、文学や思想の分野で理想主義が唱えられました。今ある現実を超えてあるべき姿を追い求め、f 理想と現実の間で葛藤した人々の姿が印象的でした。
先生:大事な点に気が付きましたね。実は「理想」という日本語は、近代になってからドイツ語のIdeal(イデアール)を訳して作られたものなのです。
C:Idealの語源はイデアでしょうか?永遠に変わることのないイデアを踏まえて、理想という言葉が作られたのですね。
先生:そのとおりです。西洋の思想を取り入れる中で、g 現実の自己をより深く見つめ、あるべき姿を探求した人もいました。
下線部gに関連して、自己を深く見つめた哲学者の西田幾多郎と、その西田が深く共鳴した親鸞の思想に関心を持ったCは、次のノートを作成した。ただし、ノートには、適当でない箇所が一つある。西田幾多郎や親鸞について説明した記述として適当でないものを、ノート中の下線部①〜④のうちから一つ選べ。
ノート
西田幾多郎は、あるべき自己のあり方を、世界や存在の真のありようという観点から考えました。『善の研究』の中で、① 西田は、例えば美しい音楽に心を奪われて我を忘れるような主客未分の体験に注目し、これを純粋経験と呼びました。また、② 西田は、純粋な知の働きによって「真の実在」を認識し、自らのあり方を反省することで、「真の自己」が実現されると考えました。彼の思索には、自己の理想的なあり方を真摯に見つめた姿勢が感じられます。
さて、西田というと、坐禅に打ち込みつつ自分自身の哲学を築き上げたことで知られていますが、西田は、親鸞にも深く共鳴していました。
③ 親鸞は、自己の内面に捨て去ることのできない煩悩があることを見つめて、自分は煩悩を捨て切れない悪人だと自覚することを重視しました。また、④ 自然法爾という考え方を示した親鸞は、悟りを求めようとする自力を捨てて、阿弥陀仏のはたらきに身を委ねるあり方を説きました。ここには、現実の自己のあり方を厳しく見つめ、理想を探し求めた姿勢が感じられます。
二人の生きた時代は異なりますが、このような両者の思想は、理想を探し求めることで現実の自己を問い直し、そこから新たな現実を開くことができるのだと、私たちに教えてくれます。
- ①
- ②
- ③
- ④
正解!素晴らしいです
残念...
この過去問の解説 (2件)
01
哲学者・西田幾多郎と鎌倉時代の浄土宗の創設者・親鸞に関する知識と理解が問われています。
選択肢の記述は、⭕️正しいです。
西田幾多郎は、主観と客観を分けることができない状態を「純粋経験」と呼びました。
例えるならば、音楽や絵画を見ても、「この音は何か」「この色は何か」などの判断がつく以前のありのままの経験のことです。
判断や思考が生まれる前の何にも先立つ経験ともいえます。
適当でないものを選べとありますので、正解は②となります。
選択肢の記述は、❌誤りです。
西田は純粋経験という概念から出発し、実在や世界のあり方を見つめ直しました。
ここで重要なのは、純粋経験が「知の働き」によるものではないということです。
純粋経験は「知の働き」というよりも、感じること、体験することに近い概念だと考えられるため、この選択肢は不適切です。
選択肢の記述は、⭕️正しいです。
親鸞は、悪人正機説を唱えました。
親鸞は、自らを自力では煩悩を断ち切ることができない「悪人」だと自覚することを重視し、悪人こそが阿弥陀仏による救済の対象であるという立場をとりました。
選択肢の記述は、⭕️正しいです。
他力本願の考えを説明しており、阿弥陀仏のはたらきに身を委ねる信仰のあり方を示しています。
西田幾多郎は親鸞の思想に深く共鳴しており、
「一切の書物を焼失しても『歎異抄』(親鸞著)が残れば我慢できる。」と言っていたほどです。
*キーワード
西田幾多郎・・・純粋経験(何にも先立つありのままの経験)
親鸞・・・悪人正機説、他力本願
参考になった数0
この解説の修正を提案する
02
西田幾多郎と親鸞の思想についての問題です。
誤ったものを選ぶ点に注意しましょう。
誤答です。
正しいです。我を忘れるような主客未分の体験を、純粋経験と呼びました。
正答です。
誤りです。真の実在は、純粋な知の働きではなく、主客の区別がない純粋経験そのものにおいて認識されます。
誤答です。
正しいです。親鸞は煩悩を捨てることよりもむしろ、自身が煩悩を持つ悪人であると自覚することが重要であると説きました。そして、そうした悪人こそ阿弥陀仏が救済すると説きました(悪人正機説)。
誤答です。
正しいです。自然法爾とは一切を阿弥陀仏にゆだねることです。親鸞は念仏を唱えることも自力で救われようとしているとして、自力を捨てるべきとしました(他力本願)。
西田幾多郎も親鸞も理解が難しい思想家です。まずはキーワードから押さえましょう。
参考になった数0
この解説の修正を提案する
前の問題(問44)へ
令和4年度(2022年度)本試験 問題一覧
次の問題(問46)へ